腐印注意

腐印の 映画 アニメ BL 雑記。おもにネタバレありです。

「ブラックスワン」

GEOが、“新作DVD5枚1000円”というありがたいキャンペーンを続けているので、見たい新作が5枚たまると借りるようにしています。
今回は「ブラックスワン」「Xメン ファーストジェネレーション」「ブルーバレンタイン」「ヒアアフター」「マイティ ソー」のラインナップ。2泊3日なのでけっこうキビシイのですが、がんばって消化。

で、4:00に起きてゴミを捨てた後、さっそく「ブラックスワン」を鑑賞。ナタリー・ポートマンバレリーナの役を演じているのですが、や、似合ってましたよ。この方、顔がオードリー・ヘップバーンに似ているな、とよく思っていたのですが、今回体つきまで似ているなと思った。痩せていて、首が長くて、華奢で、なるほどオデットって感じです。
バレエって、芸術なのかスポーツなのかっつーハードなからだの使い方をするので、痩せていればいいというものでもなくて、質のいい筋肉をつけたり、人体を理論で効率的に動かしたりと徹底した自己管理が必要で、実際には、精神的にもタフな体育会系の人が生き残っていくんだろうと思うんですが……まあ、この映画の主眼はそこにあるわけじゃないので、ナタリーポートマンの悲壮感漂う繊細さは、あれで正しいんだろうなーと。もうね、「女リーアム・ニーソンか!」とゆーくらい、常にとほほ顔。まゆ根が寄ってしまってます。声もちいさくておどおどしていて、「よくまーそれで、厳しいプロの世界にいられるなー」とこっちが心配になるほどなんですが、しかし、そこにはちゃんと理由があります。母親とふたりの生活なんですが、このお母さんが典型的な子離れできないお母さん。娘の生活のすべての面において支配的で、むくわれなかった自分の人生の夢を娘に実現させようとしています。あまりにも母親と娘で密着しすぎてしまって、自分が本当はなにをしたいのか、どういう人間なのか、なにもわからなくなってしまっている。2人分の人生を背負いこんでいる娘の息苦しさが、全面に出ている画面づくり。もう、常に、ナタリー・ポートマンがはあはあと息苦しそうにしている。「報道映像か?」ってゆーくらい、カメラが近くて、視界が狭くて、画面もざらざらしています。映る場所は、スタジオ、楽屋、トイレ、地下鉄、アパートメント、地下道と、暗くて、狭くて、密閉された、逃げ道のない場所ばかり。見ているこっちまで憂鬱になってくるよー、たまには晴れた公園とかにでかけてくれよーと思いますが、ありません。いわゆる、人が普通リラックスするような、風呂とか、食事とか、寝室とか、そのすべてにおいて、安心できない、いつも何かが自分を見ているような、追い詰められている感じ。ナタリー・ポートマンを、首の後ろのあたりからじっと撮るシーンがわりとよく出てくるんですが、あれって、まさにホラーの演出ですよね。でも、この作品の場合、主人公を背後から狙っているのは、殺人鬼ではなく、母親の視線を借りた自分自身なわけです。常に、自分を見つめ、監視し、罰しているのが自分自身だとしたら、もう逃げ場はないわけですよね。つ、つらい。。。ライバルにまで「もうちょっとリラックスしたら?」とかゆわれてるぅー。とほほです。でも、家には常に自分を待ち続けている母親がいて、すこしでも逆らうそぶりを見せるとキレられて、部屋の中にまでずかずか踏み入ってこられて、そりゃリラックスできるわけねーわなぁ! とむしろ私がキレそうよ。いや、どんな母親にもそういうところはある。だから、普通は、思春期の頃に反抗して、「私とあなたは別々の人間なんですよ」と宣言しなくちゃいけないんだけど……この子の場合には、それでも結局自分を愛してくれるのは母親しかいない、というジレンマがあって、いい子でいなければ、期待にそわなければ、見捨てられる、という恐怖感で、成長することを自分で封印してしまっている。それが、ぬいぐるみだらけの部屋や、オルゴールや、母親との食事のシーンに出ている。こう、冒頭に、皿にのったグレープフルーツと卵がでてくるシーンがあるんですが、その出され方が、なんか、エサを与えられているみたいなんですよ。口では、「きれいな色のグレープフルーツねー」と歌うように母親がいうんですが、目が、全然笑ってない。そして、自分は同じものを食べない。娘が「ほんとね」といってそれを食べるのを、少し高い位置からじっと監視しているわけですよ。怖っ!
そして爪を切るシーン。自傷癖のある娘の爪を母親がバスルームで切るんですが、これも怖い。なんでって、まず怒ってる。怒っている人間に爪を切られるほど怖いことってねーだろ、と思うんですが、娘は逆らえない。で、案の定、深爪される。「痛い!」と叫ぶと、ちゅっと母親が指にキスするんですが、完全に、ごまかしです。謝る代わりに愛情を示して見せてごまかしてます! 怖っ! しかし、こういうことって普通のご家庭でもよくあるはずです。

世話をされる、というのは、支配される、というのと同義語だということが、よくわかる。だから、自分の面倒をみられる年になったら、自分のことは自分でやりますよ、と言うべきなんですが、主人公はそれを強く言えない。。。哀れ。
結局、彼女にはバレエと母親しかなくて、それ以外の価値観が人生にはいりこんでこない。本当は、友人とか、恋人とか、だれかとの出会いが別の価値観を与えてくれたり、別の視点でモノをみるような機会を与えてくれるはずで、そのことをうすうす知っているから、彼女自身もなんとか袋小路から抜け出そうと、新しくはいってきた団員の子と慣れない夜遊びをしてみたり、演出家と恋をしようとしてみたりするわけですが、、、そのことごとくに失敗する。団員の子は、友人になる以前にライバルだし、演出家にとっては、主人公は生身の人間ではなく自分の作品の一部でしかなくて、あこがれていたプリマは、歳をとって追い落とされ、転落の人生を歩んでます。

……処置なし。
出口なし。未来なし。
そうして、少しずつ狂っていく主人公。

その後の、幻想とも現実ともつかない描写がつづくなかで、「結局破綻して終わってしまうのかなぁ」と悲しい気持ちでストーリーを追いかけていた私ですが、……ありましたよ。大逆転が。満塁ホームランが!
最後に、あこがれ続けたプリマとしての舞台のシーンがあり、満身創痍の主人公はそこにすがるわけです。なにもかも失って、残ったのは舞台しかない。ほかのことは何も考えられないほど追いつめられていて、まるで夢の中を漂うように舞台に押し出されていく。そして緊張感は最高潮! という瞬間に……失敗する。

すごいっス。
いたたまれないっス。
人生に数回あるであろう、頭真っ白状態。

終わった……と普通なら考えるところですが、じつは、このできごとこそが、主人公を覚醒させます。古い価値観にしばられた自分を壊し、いままでおさえつけていた本能とともに新しい自分が立ちあがってくる。それは、危険な存在であるがゆえに、ものすごい魅力をもっているわけです。そのことが、ちゃんと舞台をみている観客にも伝わる。
主人公がブラックスワンと一体となって踊る姿に、見ているこっちもすごい開放感を味わう。この瞬間のための、長い緊張感の持続だったんだなぁ、と改めて納得です。大抵の映画は、この瞬間のカタルシスのために存在するんですよね。ランボーエヴァデス・プルーフも、最後に本能の赴くままに抑制を開放するところがたまらなく気持ちいいんだものな。

話の流れだけでみたら、オチは悲劇的といえるのかもしれないが、私は感動しました。よかったー、と思った。自分のからだが自分のものではなかった主人公が、ガラスの破片の痛みを感じた時に、自分のからだを取り戻したんだ、という気がしました。鏡に向かってほほ笑む顔は狂気にもみえるんだけど、満足も感じられる。誰のためでもなく、自分のため、自分が納得するために。自分の痛みは自分のものである、ということが深い充足感を与えてくれる。だからこその、「完璧だった。感じた」というセリフかなーと。舞台という幽玄の世界に在るオデットと主人公の内面世界がリンクしていて、うまい演出でした。主人公が向こう側の世界からこちらの世界を見たときに、観客の席に母親がちいさく見えるところに、本来持っている素直な愛情とか共感がうかがえた。成長してはじめて、母親も自分とかわらない弱い人間であると理解することができる。
「自分を超えろ」
と演出家が主人公に言いますが、彼女は超えたからこそ、観客席が俯瞰でみえたのでしょう。
越えたのは、正気と狂気の境界線だったのかもしれませんが……、舞台というのは非日常の世界なんだから、それで正しいんだと思います。狂気と芸術は紙一重。生と死も紙一重。そこに官能がありますね、ということで、大満足の一品でした。